愁月

 


「初めに、何から忘れて往くのだろうな」
 少しばかり眉を浮かせ、あなたは桟の向こうを見やる。
 篠を退けると、夜半に冷めた涼風が頬を凪いだ。
 薄墨を果てまで流した空が、蒼い紗をまとって天上から踊り寄る。叢雲むらくもの隙間からでた白む姿が、輪郭をなぞる光を従えて、満々と冴えていた。
   さぁ、何かしら。そうね、顔?
 そう言うと、あなたは可笑しそうに目を細めた。
「おまえは、俺が死んだら、最初にこの顔を忘れるのかい」
 柔らかに、闇夜に馴染むその声。切れ長の一重瞼ひとかわめには慈悲を帯び、宙に乗る白い円を眺めている。

  ――あれが途轍もなく憎くなった。

 染み付いたおもてを、惜し気もあれば哀れみもするのに、ああも、したり、と晒す事が醜く思えて仕方ない。
 それでいてあなたに愛でられている。
 憎く醜い嗄れた姿で。

     いいえ、まさか。ただのあてずっぽうです。
 ころり、とひとつ、笑ってみせた。
 砂金の礫は斑雲まだらぐもに掻き消えて、天上の明りだけがこちらを照らす。
 古く東では彼を男神と奉り、遥か西には女神と崇めた。満ち欠けを繰り返し、不滅と永劫を司る神として。永く遠くそこに在り、何人も彼を知る。ならば、彼も何人をも知るのだろうか。
 あなたは、彼に知れているのだろうか。
 妬み、嫉み。濁り、こごり。
  ――あれはいつから、あなたをみているのか。

「俺は、声ではないかと思うのだがな」
   では、あなたは私が死んだら、私の声を忘れるのね。
 口先で非難めいても張りは出ず、目許はおのずと綻びる。
 あなたはまた、可笑しそうに笑った。

  ――あれが憎い。

 幾百の詩人の、幾千の歌人の、幾億の徒人の憶えではどうして飽き足りないのか。あなたの憶えさえも奪っていく。
 奪われる。あなたの、声も、顔も、髪も、眼も。奪っていく。私の、あなたを、奪っていく。
あなたしか知らない私を置いて、あなたは忘れて往ってしまう。
 憎い。醜い。恨めしい。羨ましい。


――私は、あんなに美しくない。


「あぁ、おまえ。みてごらん」
   なあに、あなた。
 満ちみちて冴えざえとしていた彼が、揺蕩たゆとうていた叢雲に隠れた。あとには、朧げた淡い光が照らすのみ。
――あれはいつから、私をみていたのか。

「月が、やっと隠れた」

 あなたをみる彼。彼をみるあなた。あなたをみる私。私をみる彼。
 あなただけは、私をみない。

 やはりあなたは、私の顔を忘れるのでしょう。