妖鬼人聞伝記異譚

 


 禿かむろ木履ぼっこがしゃりん、と鳴るのが合図で、道中ぢゃあ外八文字の与太よたりんした新造しんぞうが一所懸命になって歩くのが面白いものでおした。そうして前を見やりんすと、そりゃあ豪奢ごうしゃな金の髪を結い上げんした、未通揚(みぞあげ前の振袖新造が居るのでござんす。それが"おいらん"姉さまでおした。
――姉さまにゃ、何故に花魁おいらんが居らんのか――
 そんな莫迦ばかなことを訊いたことがありんしたが、おいらんは赤土色の目を真ん丸に見開いて、ころころ、と笑うだけでおした。花魁が居らんのも、村八分のような有様も、元号明治も明けたころ、横浜で異人さんを見いしたときに、ようやっと分かりんした。おいらんはこん国の御仁ぢゃなかったのだと気つきんしたので御座んす。おいらんは、はじめっから"そういうもの"であったのだと思っていんしたのでありんす。

 おいらんの禿かむろになりんして、一年ひととせもたちんした頃でおしたか。つきあげの日取りが決まりんした。その日のおいらんは忘れもありせん。髪は光を縒った絹糸を横兵庫にしんして、蒼黒の打掛うちかけはさりとて絢爛けんらんではのうおしたが、おいらんがまとえば京の太夫も及びんせん。綺麗でおしたよ、あれほどの遊女は、散茶さんちゃになった頃でも見んせんでおした。そいだというに、おいらは忘八ぼうはちの遣いへ行かねばならんくて。ごねて子時まではおいらんについて道中を歩きんした。急いで済ませて、亥時に帰りんした。おいらんは無事に良いお人をもらいんしたんでありんしょうか、それだけが気がもめた。

――おいらんは、身請けされたと聞きんした。

 そんな筈ありはしねえと。留袖でもねえ振袖が、つきだしの日に身請けなんぞありはしねえと。幾日も幾日も、姉上さまが代わっても、ずっと思っておりんした。思うところがあったようでおすて、忘八から、おいらんが身請けされたのは御三家に縁の男だと聞きんした。そうして、あぁ、おいらんはおいらの手が届かねえところへ行ってしまいんしたのだと、なぜかさみしくて哀しくて……。

 そう、たった一度きり、おいらんがお忍びでくるわまでいらしたことがありんした。新しいあねさんの引けを待って居りんすと、大門のほうから、ほっかむりした女がおいらを呼んでおりまして。おいらんだと気つきんしたときには、嬉しかった。おいらの心配をたくさんしておいでで、自分はなんの心配もねえからと、土産に翡翠のかんざしをいただきんした。嬉しかったこと。

 ……それから……そう、ちょうど半年して、大名家から大火が出んしたと聞きんした。おいらは必死になっておいらんの行方を捜しんしたけんど、大名の一家はみな亡くなりんしたそうで、誰もおいらんの行方は知らなかったんでござんす。そいでどこぞからか、鬼の噂を聞きんした。大火の中に、金の夜叉を見た、と。夜叉は女で、それは美しい金の髪を振り乱し、紅玉のような眼をしていた、と……。

 幾年かして、おいらは散茶女郎になりんした。馴染みの庄屋に身請けしんしたけんど、亭主が身体の弱い人で。娘を産んでおすぐに逝きんした。それからは八十八さまもご存知の通りでござんす。姑さんに追い出されまして、そこらじゅう歩き回りんした。吉原出の子持ちを雇うところもなくて、いかほど文明開化だとて、働き口は以前のほうがあったような気がしんしたね。娘の手がかからなくなりんした頃、ようやっと八十八やそやさまとまみえんした。

 ……おいらんは、どこへ行きやしたのでしょうかねぇ。 近頃は、そんなことばかり考えてしまいんす。鬼でも何でも、もうひとめ、お逢いできねえかと――。



 ぶつり、と蓄音機レコオドが爪弾くのを止めた。
 静寂が、私と養父ちちの呼吸を妨げる。
 剥沢はくたくと振り子時計が時を刻む。養父は鼻を啜ると、ゆっくりと、喉を震わせた。
「お前の、おっかさんの声じゃて」
 蓄音機が奏でた音色は雑音ノイズが混じり、母の明瞭だった声とは程遠かった。あれは黒い円盤に刻まれた、ただの、音だ。
 それなのに、どうして母の記憶を、こんなにも思い出させるのだろうか。
 母の痩せた頬が瞼に浮かぶ。油の少ない髪を、私が結って簪を挿した。毎日、翡翠の簪を。
 掠れて痰の絡んだ声が、陽炎染みた耳鳴りを遮った。
「俺ぁ、鬼をみた事がある。……京から江戸まで下って来たときだった。山ン中で鬼を見た」
 養父は、淹れてから随分と経ってしまった茶を、一口、飲んだ。
「鬼か妖か、しかしあれは……鬼だった。男の鬼だった。あんなに紅い目玉は、後にも先にもあれきり見たことがない」
 じっ、と湯呑みの底を見詰めて、養父は心底真面目な顔で、誰ともなく、それとも己に聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「唯々唯々ただただいていた。鬼は泣けんのだと、そんとき知った。人しか泣けんのだと、そんとき知った。……そして気付いちまった。俺ぁ、まだ、泣ける、と。逝っちまった奴らの為に、俺ぁ、まだ泣けるんだ、と」
 それきり養父は語るのを止めたが、私の耳朶には母の声が聞こえている。おいらんと養父を語った、母の声が。

 ――人を殺すと言いんすは、独りきりになることおす。それを耐えるんが武士でおす。……それでも、耐えきってしまえば、それはもう、人でありんせん。耐えきれる者は、鬼でおす――

 懐かしんだ声はあまりに遠くて、最早泣くほど近くない。けれど、私は確かに人なのだ。耐えられない代わりに、忘れ往く。
忘却を許されず、嗚咽も許されず、耐えきれないほどに耐え、救いを求め何処いずこへかく者。
それを、鬼と呼ぶのだと、私は思う。
私は唯、これを記し、綴るだけだ。
誰に伝える為でなく、往く人を想うが故に。












禿……花魁の身の回りの世話をする童子のこと
新造……見習いで客を取らない遊女のこと
未通揚げ/つきだし……遊女が初めて客を取ること
忘八……遊郭の主人。楼主。
振袖・留袖・散茶女郎……遊女の階級。振袖新造が一番若く、留袖新造などに階級が上がり、女郎となる。散茶女郎は太夫・格子女郎の次の階級のこと